「苦難を乗り越える遺伝子のスイッチは、誰にでもある」平尾誠二【名言ニュートリション】




「ミスター・ラグビー」と呼ばれ、選手として、また指導者として常にラグビー界のトップを走り続けた故・平尾誠二。唯一無二の経験から出る言葉は、常に仲間や選手たちを鼓舞してきた。

苦難を乗り越える遺伝子のスイッチは、誰にでもある
(『人を奮い立たせるリーダーの力』マガジンハウス)

スケールの大きな言葉だ。平尾は言う。

「人類は、氷河期や飢餓といったさまざまな苦難を乗り越えて生き残ってきた。であれば、現代を生きるわたしたちにも、そういう強い遺伝子は受け継がれているはずだ。ただ、いまの日本の若者たちはその遺伝子のスイッチが切られてしまっているように感じる」(同書)

どうやって一人ひとりが持つスイッチをONにするか。それができれば能力は飛躍的に高まる。
平尾は選手たちのスイッチを入れるべく、さまざまな角度から言葉をかけ、態度で示した。

2015年のラグビーワールドカップにおいて、24年間勝利のなかった日本代表は2度の優勝を誇る超強豪国南アフリカから、劇的すぎる逆転勝利を挙げて史上最大のアップセットを成し遂げた。この、「世界で戦える日本ラグビー」の基礎を作ったのは平尾だ。

彼ほど日本ラグビーのあらゆる局面で輝いていた人間はいない。
中学時代から注目されていた平尾は京都・伏見工高に進み、山口良治監督のもとで3年時に全国高校ラグビー大会で初優勝を果たした。校内暴力などで荒れた高校生たちがラグビーを通じて成長していく姿は、『スクール・ウォーズ』としてテレビドラマ化され、平尾は最終回で活躍する平山誠のモデルとなった。

山口の指導は過酷を極めた。

「あの練習を我慢できたら、世の中でおこる大抵のことが我慢できるという位のきつさでしたね(笑)。中学の時とまったく状況が変わってしまったので、その時は鬱(うつ)のような感じになってしまいました。でも僕自身が親の反対を押し切って入学したわけなので、それに対する責任もあるし、途中でやめられないという気持ちでやりとげた感じです」(WEB:中高生部活応援マガジン ヒーローインタビューより)

そんな練習を続けながら、平尾はさらに自分を高めようとした。帰宅して夕食を済ませると、近所の公園でキック練習をこなし、夜道を走るのを日課にしていた。監督の山口はその光景を、鮮明に覚えているという。
全国制覇の後、同志社大学に進んだ平尾は当時史上最年少の19歳4カ月で日本代表に選ばれ、史上初の大学選手権3連覇も達成した。
神戸製鋼に入社して主将も務め、日本選手権で7連覇し、黄金期を築いた。日本代表ではワールドカップに3回出場し、1991年には日本の初勝利にも貢献した。ポジションは主にスタンドオフ。司令塔として的確な指示を出すとともに、相手ディフェンスを抜き去るスラロームステップは実に鮮やかだった。

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現役を引退してからは日本代表監督を務め、99年のワールドカップに出場した。
外国人を初の代表キャプテンに指名するなど、柔軟な発想でチーム作りをしたが、ワールドカップでは惨敗。そこには集団での戦術を優先させる協会と、個あっての戦術という点を打ち出していた平尾とでは、強化方針にズレがあった。当時プロリーグへ大きく舵を切った強豪国に比べ、日本はまだアマチュアリズムに留まっていた。プロ選手としてのコンディショニングの知識と実践は遅れていた。

平尾の主張は、明快な理由に基づいていた。日本のボールゲームは技術、体力で外国人に劣る分を戦術的なもので補おうとしがちだが、戦術をいたずらに重視すれば、プレーに決め事が多くなり、結果的に個人の発想を制限してしまう。つまりサバイバルする遺伝子スイッチは、個が強くなることでしか入らないと考えていた。

「プレーとは最後は個人の能力なのです。瞬間、瞬間にいかに個人が質の高い判断と動きを生み出すか、そこにかかってきます。その点から、例えばフィットネスをレベルアップして今まで5メートルあった差を3メートルにまでつめれば、それまで使う余裕のなかった技術も使えるようになるでしょう。そうなると戦術にもバリエーションが増えて決め事で勝負していくバクチではなくなるはずです」(cramerjapanオフィシャルサイト:インタビュー)

フィットネス強化のコンセプトはのちの代表強化策に活かされることになる。

そして、平尾は一貫してラグビーを楽しむことを身上としてきた。楽しむとは主体性を持つということ、それが個としての強さにつながる。いわゆる「エンジョイラグビー」を浸透させた点も偉業と言えるだろう。ラグビー界に大きな足跡を残した平尾は、2016年10月、癌によって人生のノーサイドを迎えた。

平尾が「遺伝子」という言葉を使って表現したのには、iPS細胞研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥からの影響があるのではないか。学生時代から柔道、ラグビー、マラソンなど常にスポーツに親しんできた山中にとって平尾は憧れの存在だったが、初対面の雑誌対談で2人はすぐに意気投合した。楽しみながら、鍛錬によって自分を高めていくという平尾のポリシーは、山中にも通じる部分だ。
同学年の2人は固い友情で結ばれ、平尾が癌であることを家族以外で打ち明けていたのは山中だけだった。

山中は先日、別府大分マラソンを3時間台で完走して、55歳にして自己記録を更新した。
ラスト3キロは向かい風の影響で進むのもやっとだったが、平尾を想いながら走ることで完走できたと云う。
山中のスイッチも、平尾の力で入れられたようだ。

文/押切伸一

参考
『人を奮い立たせるリーダーの力』(マガジンハウス)
『友情~平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」』(講談社)