破天荒な言動とファイトスタイルで一時代を築いたミノワマンが、100㎏の大台を目指し大幅な肉体改造を行なっている。階級別、減量が主流の格闘技界にあって、なぜ時代に逆行するかのような試みに着手したのか。その思考を紐解くためにも、パンクラスの入門テスト不合格からプロデビューに至るまでの激動の数年間を振り返る。
「名前が呼ばれずショックでした」
―前回は高橋義生選手に入門テストを直談判したところまで伺いましたが、実際に書類審査はパスできたのでしょうか。
「『横浜道場に何時に来てください』という通知が届きました。受験番号は2番で、書類を見た時はうれしかったですね。もう全部を出し切ってやろうと思いました」
―1996年6月の第6回入門テストですよね。
「はい。課題は全部やり切りましたし、まわりと比べても自分は結構できたほうだと思います。タックルは伊藤(崇文)さん、ミットは梅木(良則)さんに受けてもらいました。喘息があったので走る種目は少し遅れたと思いますけど、最後の腕立て伏せ、ブリッジまで全部やり切りました。テストの内容もはっきり覚えていますし、その時は窪田(幸生)さんも受験していました」
―ただ、手応えとは裏腹にテストは不合格となりました。
「名前が呼ばれずショックでした。だけど合否の発表が終わった後に、僕と窪田さんが『二人来て』という感じでレフェリーをされていた廣戸(聡一)さんに呼ばれたんです。その時に『君たちはすごくよかったから、可能性あるから次もう一回受けに来て』と言われて。もう21歳でしたし親にも『就職しろ』と言われていたので悩みましたけど少し考えをあらためました」
―廣戸さんに呼ばれていなかったら、もしかしたら違う道に行っていたかもしれないですか。
「あきらめなかったとは思いますけど、もう一回受けるべきかどうかでは悩みました。ただ、その時に廣戸さんだけではなく諸岡(秀克)さんにも声をかけられたんです」