「パンクラスも含めて日本全国にリングを運んでいました」
―練習場所だけではなく仕事まで見つかったのは大きいですね。
「鉄骨の製作の仕事だけではなく、リング屋としてパンクラスも含めて日本全国の会場にリングを運んでいました。それと並行して、誠ジム主催のアマチュアの大会に出たり、その他の試合にもいろいろ出させてもらいました。月1でパンクラスの大会の会場にリングを運ぶだけではなくて、スタッフが足りない時は選手の入場をエスコートするセコンド役みたいなこともやりましたね」
―パンクラスの会場でリング設営もしていたのなら、次第に顔も覚えられたんじゃないですか?
「高橋(義生)さんと(KEI)山宮さんは関節技セミナーの時に会っていますし、ちょっとずつ顔を覚えてもらうようになりました。その後も僕は『パンクラスに入りたい』と言い続けていて、第7回入門テストも受けようと思っていました。でも、その時に諸岡さんから『ちょっと待ってくれ』と言われたんです。それで第7回はあきらめました」
―諸岡会長が止めた理由は何だったのでしょうか?
「もしかしたら自分が主催する大会に出場させたかったのかもしれないです(苦笑)。ただ、そこは聞いたわけではないので、よくわかりません。でも、その第7回で窪田さんが合格して、また先を越されてしまいました。その後、僕は誠ジムのトーナメントで優勝して第4代KBWチャンピオンになったり、ジムに入ってから2つくらいタイトルを獲りましたね」
―アマチュアの大会とはいえ、着々と経験を積んでいたんですね。
「その他では剛竜馬さんのところにもリングを運ばせてもらっていたので、冴夢来プロジェクトの第1試合でも試合をさせてもらいました。僕のプロレスデビューはその試合で、格闘技のプロデビューは仙台の大きな観音様が立っている横のテニス場で、PRIDEとかでレフェリーをされていた木村参味夫さんと闘った試合になると思います」