佐久間編集長のパーソナルトレーナー百人斬られ(仮)Vol.26 杉崎宏哉 前編




VITUP!編集長・佐久間が全国のパーソナルトレーナーさんを巡っていく「パーソナルトレーナー百人斬られ(仮)」。今回登場するのは現役フィジーク選手としても活躍する杉崎宏哉トレーナーです。「Never too late(遅すぎることはない)」をモットーとする、その原点に迫りました。

杉崎宏哉トレーナーのモットーは「Never too late(遅すぎることはない)」。そのトレーニング指導は“ネバトレ”と呼ばれています。

 

杉崎さんが「遅すぎることはない」という発想に至ったのは、自身の経験に基づくものです。事実、本格的にパーソナルトレーナーになったのは40歳を過ぎてからで、ボディコンテストに初出場したのも44歳のとき。「遅すぎることはない」を、自ら経験、実感してきたのです。

 

ただ、その道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。剣道を励んでいた中学生時代に腰椎分離症と診断され、以来、腰痛との長い付き合いを余儀なくされます。

 

「高校3年まで剣道をやっていて、その後は趣味でキックボクシングをやって、初めてジムに行ったのは25歳のときでした。当時は“お腹を割りたい”程度の考えで、週1回だったり、2回だったりのいい加減なトレーニングをしていました。僕が20代の頃はYouTubeもないし、パーソナルにお金を使うという感覚もなかったため、間違ったフォームで筋トレをしてしまうんです。そうするとベンチプレスをして肩を痛める、スクワットをして腰を痛めるという感じで、ケガをします。でも若いときは治りも早いので、治ったらまた筋トレをして、間違ったフォームでまたケガをする……ということを繰り返していました」

 

ケガやフォームに関する知識が乏しく、良くないトレーニングを繰り返してきた結果、杉崎さんは40歳を迎える頃に、強度の腰痛に襲われます。いろいろな整形外科をめぐり、MRIやCTを撮っても原因は不明。解決策がなく、大きな苦しみを味わいます。

 

「ひどいときは、立ってもダメ、座ってもダメ、寝てもダメで、夜に眠ることもできませんでした。当然、その間はジムにも行けません。病院に行っても原因がわからず、この先、何十年もこんな状態で生きていくのかと思うと、絶望して泣いたこともあります」

 

そうしたなか、医師から手術を提案されます。原因がわからないため、良くなる確証はないにもかかわらず、手術をするか、しないかという選択を迫られました。

 

「治るかわからない手術をすることに抵抗があったので、少し待ってもらうことにしました。自分で勉強して治すためのアプローチをして、それでも無理だったら諦めて手術をしようと思ったんです。そこからは死に物狂いで解剖学や体の仕組み、腰痛のことの勉強を始め、理学療法士さんのセミナーに参加したり、その流れでトレーナーの資格も取りました。こうして原因を探り、一つずつ解決していったことで、腰痛が治ったんです」

 

原因不明の腰痛を克服した杉崎さんは、新たな道へと進む決断をします。それがパーソナルトレーナーでした。20代の頃から将来はフィットネス系の仕事をしたいという思いがあり、30代後半の頃には飲食店を経営しながら、二足の草鞋でトレーナー活動も始めていました。安定した生活を手放す怖さはありつつも、腰痛克服を機にフィットネス一本に絞る決断をしたのです。

 

「飲食店を経営していて、ある程度安定した収入があったので、それを捨てるのは馬鹿げてると周りの人には言われました。だけど、僕みたいに原因不明の腰痛や体の不調に悩まされている人はたくさんいるはずなので、自分の経験を伝えたいと思って決断しました。フィットネス業界は若い人がたくさんいるなかで、40歳から入っていくのは遅いかもしれませんが、自分の背中を押すため、自分に言い聞かせるために『Never too late』、遅すぎることはないという言葉を使ったのが、ネバトレの始まりです」

40歳から新たな一歩を踏み出すにあたって、杉崎さんは「20年の遅れを短縮するため、お金と時間を5倍くらいかけました」と言います。

 

地道にトレーナー業を行ないながら、自身のスキルアップのため、オンラインセミナーを受けたり、書籍を読んだりの日々。さらにトレーナー業界の第一人者と呼ばれる先輩トレーナーのパーソナルトレーニングを自ら体験し、すべてを力に変えていきました。その結果、現在では予約が取れないほどの人気トレーナーとしての地位を確立しています。

 

あくなき、向上心はボディコンテストにもつながっていきました。初めてボディコンテストに出場したのは44歳のとき。これは自らが望んだものではなく、お客様からのリクエストに応えるための行動でした。

 

「指導していたお客様からボディコンテストに出たいから、それ用にトレーニングを教えてほしいと言われたんです。ただ、自分が出たことがないと教えられないので、まずは僕が体をつくって実際に出てみて、その経験を伝えようと考えました。だから自分が出たかったというより、お客様の要望に応えるためというのがきっかけです。このときも最初はビビッていたのですが、“遅すぎることはない”の精神で、自分に言い聞かせて臨みました」

 

果たして杉崎さんは2020年の「ゴールドジムジャパンカップ」メンズフィジーク・マスターズ172㎝超級優勝をはじめ、フィジーク選手としても活躍するようになっていきます。そして選手たちから指導の依頼を受けるようにもなりました。

 

多くのトレーニーに指導を求められる杉崎さんですが、あくまでもメインは体の不調に悩む中高年の方たち。本格的にトレーナーを目指すことを決めたときの初心を忘れず、健康寿命の延伸を第一に指導を続けています。

 

「僕のパーソナルを受ける方は40代以上の方が大半です。最初はみんな『今からでも大丈夫ですか?』と不安を抱えてやってきますが、90歳でも筋断面積が増えたという研究報告もありますし、自分の体験も含めて症例を伝えて、遅すぎることはないですよと動機づけをするところから始めています」

 

トレーナーとして、フィジーク選手として活躍を続ける杉崎さんのこれからの目標は、一人でも多くの人に健康でハッピーな日々を過ごしてもらうこと。

 

「最初は片脚立ちすらできなかった方が、16キロのダンベルを持ってランジができるようになったり、50代でシックスパックをゲットしたり、成果を出すことはもちろん、自分は無理かもしれないと思っていた人が、そういうところを目指そうというメンタルに変わっていくのを見るのは嬉しいですよね。飲食店を経営していたときは、楽しい時間をお客さんに提供して、その瞬間を楽しんでもらうことが幸せだと思っていました。でもフィットネスは瞬間ではなくて、この先、10年、20年と『やっておいて良かった』と思える喜びに変えられる可能性があります。そう考えるとすごくやり甲斐があります」

 

「Never too late」。遅すぎることはない。杉崎さんは、これからも自身のモットーを広く伝えることで、多くの方の健康寿命延伸を目指していきます。

 

 

というわけで、今回はここまで。次回は杉崎さんのトレーニング実践編をお届けします。

 

 

【トレーナーPROFILE】
杉崎宏哉(すぎさき・ひろや)
40歳で重度の腰痛を患い、 手術を迫られたことにより、体の仕組みについての勉強を始める。結果、腰痛は手術なしで見事寛解し、同じような悩みを抱える人にトレーニングを伝えるために本格的にパーソナルトレーナーの道へ。現役フィジークマスターズ選手としても活躍中で、ゴールドジムジャパンカップ優勝、JBBF東京選手権優勝、関東選手権優勝、オールジャパン4位という成績もおさめているモットーは「Never too late(遅すぎることはない)」。
〔保有資格〕
NESTA PFT、機能解剖学スペシャリスト、スポーツ栄養スペシャリスト、ファンクショナルトレーニング、メノポーズケア認定インストラクター

 

【パーソナル情報】
全世界対応:オンラインでのダイエット&トレーニング指導(英語可)
対面指導:港区にて
詳細はホームページをご確認ください

 

佐久間一彦(さくま・かずひこ)
1975年8月27日、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、高校日本代表選出、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年~2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアン、パラリンピアンの取材を手がける。