筋肉が硬くなる現象「チキソトロピー」
ただし、ヒトには貝のように収縮と弛緩をそれぞれ司る2つの神経はありません。むしろヒトの筋肉を支配する神経はもっと原始的で、収縮させる神経しかありません。
ということは、へたにキャッチを起こしてしまうと、自力で緩めることができずに困った事態になってしまいます。ですからキャッチの仕組みは基本的には使われていないと思われますが、タンパク質の仕組みから考えると痕跡的に残っていてもおかしくはないのです。
そういう観点で筋肉を見てみると、面白い事実に気づきます。それは、じっとしていると筋肉が硬くなるという現象です。同じ姿勢を維持していると筋肉が硬くなることは古くから知られていて、「チキソトロピー」と呼ばれています。
朝起きた時は、誰でも体が硬いですよね。それから少しずつ活動していくうちに硬さが取れて動きがスムーズになっていきます。決して筋肉が興奮しているわけではなく、筋肉の活動が起きているわけでもないのですが、なぜか硬くなってしまう。これは不思議です。
実際、じっとしている間に継続的に筋肉の硬さを測った研究がありますが、30分、60分、120分と時間が経つごとに筋肉がどんどん硬くなっていくという結果を示しています。
貝のように1回の収縮でキャッチという現象が起こることはありませんが、もしかすると同じ姿勢をとっているうちに筋肉が硬くなることにはタイチンが関連しているのではないかと私は考えています。
硬くなってしまった筋肉は、ストレッチなどを行なうことで元のように柔らかくなっていきます。ネコが目覚めた後に「伸び」をするのはそのためでしょうか。
また、バイブレーションを与えても同じように柔らかくなることがわかっています。じつは貝の筋肉もバイブレーションを与えるとキャッチが弛緩するという報告があり、その点でも両者は似ています。もしかすると筋肉を柔軟にするためにはバイブレーションをうまく利用することが効果的である可能性もあるのです。
また、トゥイッチンはセロトニンを介してリン酸化される(リン酸がくっつく)とキャッチ収縮を弛緩させ、リン酸が外れるとキャッチを起こします。タイチンも同様だとすると、そのリン酸化を促す可能性のあるアドレナリンが作用することで筋肉の弛緩速度が速くなり、結果的に素早い運動やパワー増強のようなことが起こることも予測されます。
このあたりのことは、まだ誰も考えていないと思います。私自身もかつて貝の筋肉の研究に没頭した時代がなければ、貝の筋肉とヒトの筋肉を結びつける発想はできなかったでしょう。
ということで、このテーマは私的な興味という面が大きいのですが、いつかそうした研究にも取り組んでみたいと考えています。
※本記事は2018年に公開されたコラムを再編集したものです。
1955年、東京都出身。東京大学名誉教授。理学博士。専門は身体運動科学、筋生理学、トレーニング科学。ボディビルダーとしてミスター日本優勝(2度)、ミスターアジア優勝、世界選手権3位の実績を持ち、研究者としても数多くの書籍やテレビ出演で知られる「筋肉博士」。トレーニングの方法論はもちろん、健康、アンチエイジング、スポーツなどの分野でも、わかりやすい解説で長年にわたり活躍。『スロトレ』(高橋書店)、『筋肉まるわかり大事典』(ベースボール・マガジン社)、『一生太らない体のつくり方』(エクスナレッジ)など、世間をにぎわせた著作は多数。