ビジョントレーニングを開始し、世界王者に
プロボクシングの歴代王者の中でWBC、WBA世界ウェルター級王者シュガー・レイ・レナードほどスピードのある動きと紙一重のところで相手のパンチをかわす華麗なテクニックでファンを魅了したボクサーはいない。と同時に、よほど動体視力が高いのだろうなと思ったものだった。
プロボクシングの元世界王者・薬師寺保栄(現・薬師寺ボクシングジム会長)が名古屋在住の内藤貴雄氏のもとで動体視力を高める「スポーツビジョントレーニング」をやりはじめたのは1993年の春だった。まだ世界ランカー上位の頃で、もちろん世界王者を目指していた時期だ。ビジョントレを開始して半年が経った12月、薬師寺はWBC世界バンタム級王者・辺丁一に挑戦。2-1の判定ながらベルトを獲得し、さらに半年後の94年8月、リベンジに執念を燃やしていた辺丁一を11ラウンドTKOで圧倒した。
この試合をリングサイドで観戦していたビジョントレ指導の内藤貴雄氏は「期待していた通り薬師寺はやってくれましたね。このところビジョントレの成績がハイスコアを出していて、眼の動きが以前にも増してスピードがあり、なめらかだったんですよ。スパーリングの積み重ねもあるのでしょうが、ハイスコアをコンスタントに出せるようになっていましたからね」(当時の取材)。
内藤氏はドクター・オプトメトリストというビジョントレの資格を米国の大学で取得していた。オプトメトリストとは、両眼の視力バランスの異常をトレーニングによって正常に戻し、いわゆる眼の機能を高めたりするトレーニングの指導者のことを言い、ステイタスのある職業だ。米国ではさまざまな競技場の中にスポーツ・メディカルセンターがあり、オプトメトリストの指導で眼のトレーニングをする施設が設備されている。
ビジョントレといっても0.1の視力を1.0にしようという視力矯正のプロクラムではない。視力というのは視力検査でわかるように静止した状態で文字や図形を視る力だ。しかし、スポーツの場合は動きがあるため、さまざまな眼の働きが総動員される。米国のスポーツマンは体力をつけ、技や心を磨いて鍛えていくだけでなく、眼のさまざまな働きを鍛えることによって運動能力をさらにアップさせているのだ。
さて、王者・薬師寺はその後、天才・辰吉丈一郎と死闘。辰吉を圧倒して2-0判定で3度目の防衛に成功した。その後、95年7月の5度目の防衛(ウェイン・マッカラー戦)に敗れて引退した。
この薬師寺が現役の頃、筆者は専門誌『ボクシングマガジン』の名古屋担当のボクシング記者をしており、薬師寺に内藤氏を紹介してスポーツビジョントレを勧めた。あの頃の薬師寺は所属の松田ジムできつい練習を終えてから、夜遅く内藤氏のところに行き、スポーツビジョンのトレーニングをしていたものだった。疲れもあって最初は成績がよくなかったことを覚えている。ひょっとしたら途中で投げ出してしまうかもしれないなと思ったが、薬師寺は投げずによくがんばった。
いま薬師寺が当時を振り返る。
「ジムでスパーリングを何ラウンドもこなしてから内藤先生のところに行くわけですから、もうクタクタでした。でも、やったほうがいいことはわかっていましたからね。特に周辺視野の能力がアップした。相手のパンチを見るというよりも、相手の全体の動きが見えるから出てくるパンチがわかるんですよ」
スポーツビジョントレの絶大な効果を身をもって体験している薬師寺は2005年にジムを開設した。いずれ世界を目指せる選手を発掘したら内藤氏のもとに選手を送りこむ腹積もりで内藤氏の了解もとっているということである。(つづく)
取材・文/安田拡了