羽生結弦、高木姉妹、そだねジャパン……平昌オリンピックで盛り上がった皆様へ【佐久間編集長コラム「週刊VITUP!」第3回】




VITUP!読者の皆様、こんにちは。日曜日のひととき、いかがお過ごしでしょうか?

さて、平昌オリンピックでの日本選手の活躍は目覚ましいものがありました。金メダル4個、銀メダル5個、銅メダル4個で計13個のメダルを獲得。これは1998年の長野オリンピックを上回る歴代最多の記録となります。また、本日最終日を迎える平昌パラリンピックでも連日、日本選手の活躍がニュースを賑わせています。2年後に迫った東京2020オリンピック・パラリンピックも、この勢いで大いに盛り上がっていくことでしょう。普段はスポーツに興味のない人々もオリンピックに興味を持っている今の時期だからこそ、ちょっと伝えておきたいことがあります。

オリンピックでメダルを獲得した選手の多くは支えてくれた人たちへの感謝を真っ先に表現し、メダルを逃した選手は支えてくれた人たちへの謝罪の言葉を口にします。自分のことよりも周囲の人たちへの言葉が先に出てくるのはなぜなのか? それはアマチュアスポーツを取り巻く環境の影響だと思います。4年に一度、オリンピックの時だけ話題にのぼる、決して日本ではメジャーとは言えないアマチュアスポーツの場合、選手の多くは社会に出てからも競技を続けられる環境があるわけではありません。仕事をしながら競技を続けられる環境を確保することは容易ではないのです。学生のうちに世界レベルの成績を残していれば、スポンサーがついたり、企業から声がかかったりということがありますが、学生のうちに完成しない大器晩成型の選手は、自分ではもっとやれると思っていても、競技を続けられる機会を奪われる可能性すらあります。

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2008年の北京オリンピック、フェンシング男子フルーレで銀メダルを獲得した太田雄貴選手がまさにそうでした。18歳でアテネオリンピックに出場した時は9位。4年後の北京大会の時は大学4年で就職活動のタイミングでした。彼は将来のための競技をあきらめて就職活動をするか、すべてを競技にかけるか悩んだ末、小学3年生から大学3年生まで4300日間、一日も休まずに練習してきたフェンシングにかける道を選択しました。そして日本人として史上初となるフェンシングのメダリストになり、社会に出てからも競技を続けられる道を切り開くことに成功。メダル獲得後に彼が発した「就職が決まっていないのでニートになってしまいます」という言葉は、ウケ狙いではなく、オリンピックや世界を目指すアマチュアスポーツの選手たちの多くが直面する問題を表していたのです。

「オリンピックでメダルを獲ることは僕にとって目的ではなく手段だったんです。ここで自分をアピールしないと、この先、競技を続けていくことができない。メジャーと呼ばれる競技の人にとって当たり前のことも、僕らにとっては当たり前ではないんです」(2013年8月の取材時の言葉)

この後、太田選手は森永製菓株式会社への就職が決まり競技を続行。2012年のロンドンオリンピックでは団体で銀メダルを獲得し、2015年の世界選手権では日本人として初めて頂点に立ちました。もしも北京でメダルを獲れずに選手活動を続ける道を断たれていたら、この快挙はなかったというわけです。

このようにアマチュアの選手が競技を続けていくことは簡単なことではありません。環境を与えてくれた人々に心の底から感謝しているから、自然と涙があふれ、感謝や謝罪の言葉が出てくるのです。テレビのコメンテーターは「謝る必要なんてない」と知ったふうなことを言いますが、あなたに謝っているわけではないのですよ。オリンピックまでの4年という長い時間自分を支えてくれた人を喜ばせたいという思いで試合に臨み、結果が出なかった時の無念からそういう言葉が出てくるのです。感謝の言葉も同様で、国民への好感度アップのアピールなんていう、安っぽいものではないのです。

東京2020オリンピック・パラリンピックの決定以降は多くの企業がスポーツへの理解が大きくなったことにより、2008年の北京大会の頃よりもずっと環境はよくなっています。それでもサポートを受けられる選手はまだまだ一握り。年齢を重ねてから記録が伸びたり、強くなったりする選手もたくさんいます。だとしたら、早いうちに道を断たれる選手が数多く存在することは、決して歓迎できる環境ではありません。少しでも多くの選手が自分に納得いくまで競技を続けられる環境が増えてほしいと思いますし、VITUP!もどんどん成長して、2020年の東京大会以降もスポーツを応援していきたいと思っております。

佐久間一彦(さくま・かずひこ)
1975年8月27日、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年~2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアンの取材を手がける。