かつてTBSに伝説的な名プロデューサーがいた。“スポーツバラエティ”という新たなジャンルを開拓し、他局を圧倒する視聴率を記録。そのコンテンツは世界へも広がっていった。クリエイターとして一時代を築いた樋口潮氏に当時の思い出を聞く。
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――樋口さんと言えばテレビ界に“スポーツバラエティ”というジャンルを確立した人物として知られています。入社時からその志向があったのですか?
自分自身が野球やスキーをやっていましたので、アイデアとしてはありました。1986年にTBSに入社して4年目にスポーツ局に配属になりましたけど、最初はニュース番組のスポーツコーナー担当ADですから、そんなチャンスはありません。でも、当時のプロデューサーがとにかく厳しい方だったので、基本的なことはすべてその時期に学ぶことができました。普通、社員は編集をやる必要がないんですけど、僕は自分が取材したものを編集マンの色に変えられるのがイヤで編集も覚えて自分でやっていました。それからプロ野球中継を担当して、1992年のバルセロナオリンピックではディレクターを任されました。その頃には『スポーツマンNo.1決定戦』の企画書を編成に出していました。ただ、当時のスポーツ局は「運動部」とか「動物園」と言われていて、社内でゴミ扱いされていました(笑)。だから、そこから出された企画書なんて誰も読まない。
――そんな時代があったんですね。
プロ野球が雨で中止になると特番を流しますよね。よくある「珍プレー好プレー」を僕もつくらせてもらうことになったんですけど、毛色の違うものをやりたくて萩本欽一さんに司会を依頼したんです。当時の欽ちゃんと言えばテレビ界の王様ですから、各局の担当プロデューサーを飛び越えて連絡するなんて絶対にあり得なかった。そんなことは知らない若造の僕が事務所に電話をしてしまったら、上層部に呼び出されて2時間説教されました(笑)。でも運のいいことに、たまたま電話の向こうのすぐ横に萩本さんがいらっしゃったらしく、「そんな無謀なヤツと一度会ってみたい」ということになった。お会いした時には背中から汗が流れっぱなしでしたけど、僕の気持ちを直接伝えたら、「わかった。やろう。この人は真剣だから」と言ってくださった。それが日曜の15時30分から2時間枠で放送されて、その時間帯では考えられない視聴率20%を取ってしまったんです。その評価で僕の出していた企画書が編成でも読んでもらえることになり、『スポーツマンNo.1決定戦』が誕生することになりました。
――チャレンジ精神が生み出した幸運ですね。
どのジャンルのスポーツ選手が1番運動神経がいいかというのを僕はもともと個人的に知りたかったので、『スポーツマンNo.1決定戦』という企画をつくり、プロ野球選手、サッカー選手、バスケットボール選手、体操選手などから著名な選手を集めて、シンプルに50m走や跳び箱、綱引きなどで競ってもらいました。それはそれまでになかった発想だったと思います。放送日は1993年の12月29日でしたけど、視聴率もそこそこ取れました。でも僕はその後、「スポーツ局では変なヤツ」という扱いをされて、一時局から破門にされて席がなくなりました。
――数字を出して破門!
席がないんですから、3か月くらい会社にも行きませんでした。その後、広島アジア大会のディレクターになり、大会後に『スポーツマンNo.1決定戦』の2回目をやれと編成部長に言われるんですけど、1995年1月1日21時からの放送枠でした。他局が高視聴率を獲得している枠でしたので、TBSはまったく視聴率の取れない枠でした。ですので、ダメ元でやらせてもらえることになりました。ならば絶対に視聴率を取ってやる!とばかりに、まずは出場選手のキャスティングに注力しました。ただし、難航しました。オファーしても全然相手にされなかったり、各球団の広報からは「ケガしたらどうするんだ? 選手の補償できるのか?」と怒られたり。そういうことの繰り返しです。それでも想いを伝え続け、「夢を与えるのが一流スポーツ選手なので、皆さんの類まれなる身体能力を子どもたちに披露しませんか!?」と一人一人正面から説明して回りました。そのうち少しずつ戦ってみたいという選手が出てきてくれました。清原和博さんはプロ野球界のスーパースターでしたから、テレビ局の球団担当も腫れ物に触るように接していました。僕も同様に初めは「なんや、おまえ」と言われながら何度も通って口説いて、やっと出演してくれることになった。その大会にはサッカーの中山雅史さんも出演、結果、1995年の元日の放送で20%を超えました。その後、清原さんとも仲良くなり、やはり同じ人間なので気持ちを伝えればわかってもらえるんだなと思いました。
――難局を切り開いたことで獲得した数字だったのですね。
高視聴率を獲得したことで、続く3回目の『スポーツマンNo.1決定戦』の放送日が1995年3月29日に決まりました。当時、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』という毎週20~30%も取っているような番組の裏に当てられました。つねに勝負の連続です。番組制作者としては誰もやりたくない枠です。そこでバルセロナ五輪体操5種目金メダリストのビタリー・シェルボ、そしてハンマー投げの室伏広治さんといった五輪トップアスリートに参加してもらい、2時間のうち1時間半くらい跳び箱を放送しました。放送終了後は会社にクレームがほとんどなく、「やはりこれは誰も見なかったんだろうな……、生ダラに完敗したんだな……」とあきらめ、スタッフみんなで朝まで飲みながら「もう終わったね」と話していました。ところが翌朝、編成部長から電話かかってきて、29.7%取ったと。生ダラの数字が初めてシングルだったんです。その時から周囲の様々なことが大きく変化を遂げていくことになりました。
――その成功が、その後の『筋肉番付』などにつながっていくんですね。
そうです。『筋肉番付』は、1995年の7月にスタートしました。最初は金曜深夜の30分枠で、内容は腕立て伏せと腹筋だけです(笑)。それが深夜でも10%近く取った。それでその年の10月から土曜19時枠でスタートすることになりました。

